コラム No.016 ”1億円のロボット観音”マインダーの狙い

PRESIDENT Online

“1億円のロボット観音”マインダーの狙い

「仏像独特の空気」は感じないが…

出所:鵜飼秀徳 “1億円のロボット観音”マインダーの狙い
(2019年3月27日 プレジデントオンライン)

京都の寺にアンドロイド観音「マインダー」が登場した。身長は1m95cmで、開発費を含む総事業費は1億円。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「手を合わせたが独特の空気や畏れを感じなかった」という。この寺は、なぜロボットの仏像を造ったのか――。

仏像の概念を根底から覆したアンドロイド観音「マインダー」

当然のことではあるが、お寺と仏像(偶像)はセットである。日本にある寺院は、およそ7万7000カ寺。仏像が存在しない寺は、まず存在しない。それどころか、寺には複数体の仏像が納められているのが通例だ。

私が副住職を務める寺は、檀家100軒余りの泡沫寺院である。それでも仏像の数は大小15体ほどある。日本における仏像の総数については調査したものがないが、おそらく100万体を優に超えるであろう。

なぜなら、三十三間堂の千体仏など、1カ寺で1000体を超える仏像数を擁する寺院はごまんとあるからだ。神社にも仏像(神像)が納められているケースがある。京都では室町時代以降、地蔵信仰が広がり、いまでも辻々に地蔵が残っていてその数は1万体以上とも。江戸時代には現在の数倍の仏像が存在したと思われるが、明治維新時の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく※)によって多くが毀損、消滅してしまった。

※明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動。詳細は鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を参照ください。

仏像とは、一言で言えば、仏を現した造形物であり、仏は衆生を現世や来世ですくってくれる“ありがたい”存在である。そこで、「“ありがたさ”とは何か、説明せよ」と質問を投げかける人がいるかもしれない。仏像がありがたいのは、人々が長年にわたって仏餉(ぶっしょう、仏に供える米飯)を供え、手を合わせ、祈りをささげた対象であるからに他ならない。

長い歴史にわたって、衆生の悲喜こもごもを引き受けてくださるのが仏(像)である。だから、造られたばかりの仏像よりも、何百年と経過した仏像のほうが、よりありがたいと感じられるのは、当然とも言える。

「開発者は大きなタブーを犯したのではないか」

だが、伝統的な仏像の概念を根底から覆す存在がこのほど、京都に出現した。2月末に高台寺(東山区)に登場したアンドロイド観音「マインダー」である。高台寺は総事業費1億円(うちマインダーの開発費は2500万円)を投じたという。

私は先日、マインダーを拝みに高台寺を訪れた。そして、衝撃を受け、少なからず混乱した。このアンドロイド観音。はたして「仏像」と言えるのか。信仰の対象になり得るのか。私は高台寺や開発者は大きなタブーを犯したのではないか、とさえ一瞬、考えてしまったほどだ。

今回はアンドロイドの仏像を題材にし、「仏像と信仰との関係」について語りたいと思う。最初に述べるが、この問いの結論はない。

脳内むき出し1m95cmのロボットが般若心経を唱える

マインダーは身長1m95cmのロボットである。顔面から胸部、両手はシリコン製の皮膚で覆われているが、脳内や胴体は機械がむき出しだ。マインダーは無表情ではあるが眼球は動き、まばたきもする。仏像というより、どちらかと言えば生身の人間に近い。

従来の仏像は声を発することはない。だが、マインダーは般若心経を唱え、般若心経が説く「空」についての法話をしたり、音楽や映像(プロジェクション・マッピング)を流したりする。冒頭、マインダーは機械音でこのように自己紹介する。

「観音菩薩である私は、時空を超えて何でも変身することができる。ご覧の通り、人々の関心を集めるアンドロイドの姿であなたたちと向き合うことにした」

高台寺は記者会見で、「釈尊入滅(※編注:釈迦の死去)後、500年ほどがたち、仏像が造られるようになって仏教が爆発的に広まった。その後2000年間、仏像は黙し続けたが、仏像は変化する時期を迎えている。動き、語りかけてくれるアンドロイド観音によって仏教の教えが現代の人々に伝わっていってほしい」と語っている。

2500年の仏教の歴史で見る「1億円ロボット観音」

補足のために、少し仏像の歴史をひもといてみる。実は仏像の起源はよくわかってはいない。2500年前、釈迦が仏教を開いてしばらくは、仏教は法の継承がすべてであり、偶像崇拝はなかったとされている。

だが、紀元前1~2世紀頃、インド・ガンダーラでブッダを理想化した仏像が造られ始めた。そして、各地の宗教性や風土、時代を繁栄した如来・菩薩・明王・天部などのさまざまな仏像ができあがっていく。

6世紀、朝鮮半島の百済の聖明王(せいめいおう)から1体の仏像が日本にもたらされた。この日本最初の仏像は、一光三尊阿弥陀如来像と呼ばれるものだ。文字通りひとつの光背を背にして、中央に阿弥陀如来が立ち、右脇に観音菩薩、左脇に勢至菩薩が並ぶ独特のスタイルをとる。

この一光三尊阿弥陀如来像は、当時の有力な権力者である物部氏と蘇我氏が仏教受容をめぐって争った際、運河に投げ捨てられるなどの憂き目に遭っている。その後、発見されて信州に運ばれ、寺が建てられた。それが長野・善光寺である。善光寺は7年に一度の御開帳が有名だ。ご開帳の際に拝むことができるのが一光三尊阿弥陀如来像の身代わりとして造られた前立本尊である。日本最古の本尊は絶対秘仏とされ、この1300年以上、誰の目にも触れていないという。

前回の御開帳は2015年春。善光寺如来の功徳を求めて、700万人超の参拝客が押し寄せ、大変なにぎわいとなった。まさに「ありがたい」仏様である。

「観音菩薩は変化自在。アンドロイドの姿で何ら問題はない」

他にも、歴史的に価値のある仏像は日本にはたくさんある。東大寺の盧舎那大仏、興福寺の阿修羅像、広隆寺の弥勒菩薩像など枚挙にいとまがない。このように日本人の信心を集めてきた仏像と、マインダーが同じカテゴリに入るのか。

高台寺はマインダーのお披露目にあたって、「観音菩薩は変化自在。だから、アンドロイドの姿であっても何ら問題はない」と説明する。つまり、われわれの目に見えている観音菩薩の造形や機能はあくまでも「仮の姿」であって、造形や機能に意味を見いだす意味がないということだろう。

ちなみに私は、マインダーは宗教的には「正真正銘の仏像」と言ってもよいと考えている。その根拠は、マインダーは僧侶によって開眼法要(魂入れ・霊入れ・性根入れともいう)という儀式を済ませているからだ。開眼式は(あるいは閉眼式)は、墓地や仏壇を新設した時や、展覧会に仏像を出展する(もしくは寺に戻す)際などに執り行う(浄土真宗を除く)。簡単に言えば、仏像は仏の魂が入っているから、信仰の対象としての仏像たり得る存在なのである。

したがって、アンドロイドといえども開眼法要を実施した時点で、仏の魂は入っているはずである。私が見学に訪れた時、参列者の何人かはマインダーに向かってうやうやしく合掌し、礼拝をしていた。「何か」をマインダーに感じ取っていたからかもしれない。

僧侶の著者がマインダーに手を合わせて感じたこと

私も、マインダーに手を合わせた。ところが“仏”であるにも関わらず、独特の空気や畏れなどは感じられなかった。それは、私が疑い深い性格であるからかもしれない。仏像を外見で判断してはいけない。なぜなら、世の中には仏像然としていない仏像は、いくらでもある。

ヘルメットのような螺髪(らほつ、仏像の丸まった髪の毛の名称)が特徴の五劫思惟の阿弥陀仏や、一刀彫り(荒彫りな面をもって仕上げた木彫り様式のひとつ)の円空仏、あるいは路傍の石仏の中には男根型の道祖神(仏像というには微妙な存在であるが)もある。しかし、マインダーはそれらとも一線を画しているような気がする。

「フィギュア」「ぬいぐるみ」も仏像になれるのだろうか

ここからは、あえて話を飛躍させる。

私は先ほど、「開眼式を済ませたマインダーは、宗教上はれっきとした仏像」だと述べた。では、「フィギュア」は仏像になれるのだろうか。フィギュアメーカーの海洋堂やエポック社では仏像を模したガチャガチャを出している。価格は1回300~400円である。このフィギュアに開眼式をしたら、やはりそれは仏の魂が入った仏像ということになる。

そういう理屈でいえば、ガンダムのプラモデルも、テディベアのぬいぐるみでも、なんでも仏像になり得るのだ。

マインダーのように、読経や法話は機械音でも十分、と思えば今はやりのAIスピーカーから音源を流せば良い……。いや、スピーカーそのものでもよいのだ。スピーカーに対して開眼法要を行い、そこからお経や法話を流せば、立派な「仏」になるかもしれない。機能としてはマインダーもAIスピーカーもさほど変わらない。

要は、それがありがたい仏像として崇拝するか、ただの偶像と見るかは、仏前に座った者の心持ち次第なのだから。しかし、そうは言っても、300円のフィギュアや読経の流れるスピーカーに手を合わせる人がいるかどうかは別の話だ。

「木で造られた仏像やマインダーは造り手や研究者の姿が見えるが、フィギュアやAIスピーカーはただの量産品。仏像になり得る条件とは、造り手の気持ちが入ったものであること」と指摘する人もいるかもしれない。この論理の場合、宗教儀式を通して信仰の対象物にできるという論理は、成立しなくなる。

きっとこういう人もいるだろう。「信仰に偶像はいらない。大切なのは宇宙の真理(法)を継承していくことにある」。しかし、現実的には日本の仏教は、偶像崇拝の要素が強い。

マインダーを前に信心の心を得られればマインダーは本当の仏

ここまで、あれこれと、仏像と信仰との関係性について、思考を巡らせた。本稿は、マインダーは仏像か否かの結論を出すのが目的ではない。あくまでもマインダーの存在を通じて、「信仰とは何か」を深く、考えることにある。

ちなみに私は、仏像と非仏像の境界線について、こう考える。

ただ単に仏の心を入れる儀式だけでは仏像にはなり得ず、同時に手を合わせる者に、「信心の心を入れる」ということが大事。私たちがマインダーを前にして、信心の心を得られれば、その時点でマインダーは本当の仏となる。仏像は、私たちが持っている仏性と共鳴して始めて、仏としての意味をなす――。

マインダーは語りかける。「(私の誕生によって)あなたたち人間はどのような気づきを手にすることができるだろうか」。

マインダーは5月6日まで高台寺教化センターにて、公開されている(要予約)。

出所:鵜飼秀徳 “1億円のロボット観音”マインダーの狙い
(2019年3月27日 プレジデントオンライン)