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急増中「宗旨・宗派は問いません」が示す1200年以上続いた枠組みの崩壊
国が認める宗派は167にものぼる
急増中「宗旨・宗派は問いません」が示す1200年以上続いた枠組みの崩壊
(2021年5月16日 プレジデントオンライン)
現在、日本国内の仏教宗派には曹洞宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、浄土宗など167ある。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「仏教が日本に入ってきたのは6世紀。歴史の中で各宗派の勢力は変化してきました。近年は『宗旨・宗派を問いません』というケースが増え、仏教の枠組みも変わりつつある」という――。
なぜ「宗旨・宗派は問いません」が増えたのだろうか
近年、「宗旨・宗派は問いません」などとうたう、納骨堂や永代供養墓が増えてきた。しかし、この表現はアバウトだ。「宗旨」と「宗派」は本来同義だ。この場合、おそらく「宗旨=○○宗」と「宗派=○○派」とを分けていると思われる。
つまり分かりやすくいえば、「仏式の場合、お墓はそれぞれの決まった宗派のお寺に納めてもらうのが慣例ですが、うちの納骨堂はどの宗派の方でも納められます」ということになる。これまで納骨に際しては、「宗派しばり」が当たり前だったのだ。
だが、日本の仏教宗派の成り立ちや、どのような違いがあるのかについては、じつに複雑怪奇だ。
6世紀に日本に仏教が入ってきた当初は、「ひとつの仏教」だった。それが、鎌倉時代初期までに8宗(南都六宗に加えて天台宗、真言宗)に別れた。さらに、鎌倉時代に法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗、栄西が臨済宗、道元が曹洞宗を開くなどし、いわゆる鎌倉新仏教が誕生する。
以後、その弟子筋らによって、さらに細かく分派していく。昭和初期までに「13宗56派」にまで膨らんでいる。それが1939(昭和14)年、宗教団体法が施行されて公認制となり、「13宗28派」にまとめられた。戦後は、さらに分派が進み、現在でも増減を繰り返している。
では、直近でどれだけの宗派が存在するのか。国から認められた包括法人(仏教宗派、令和2年)はなんと167(前年比マイナス1)もある。
このなかで最大の宗派は、およそ1万4600カ寺もの末寺を抱える曹洞宗である。次いで約1万300の末寺がある浄土真宗本願寺派。3位は真宗大谷派(約8600カ寺)、4位は浄土宗(約7000カ寺)、5位は日蓮宗(約5100カ寺)――となっている。
曹洞宗の規模がずば抜けて大きいのは、派閥に別れていないからである。派閥の全てを包括すれば、浄土真宗(主に10派)系が全体で約2万1000カ寺と曹洞宗を抜いて圧倒的勢力となる。
「地元で強い」日本の各地でトップの仏教の宗派は何か?
しかし、日本全国まんべんなくそれぞれの宗派が分布している、というわけではない。地域によって、かなりばらつきがある。それは「真宗王国」「禅宗王国」「法華(日蓮宗)王国」などという表現でたとえられることもある。
改めて北から見ていこう。
北海道・東北に教線(布教の範囲)を拡大したのは曹洞宗だ。その理由について、『曹洞宗宗勢総合調査報告書 2015』では、
〈現在の曹洞宗寺院の多くは、15世紀中頃以降に開創されたものが大多数を占めるが、それは当時、新興勢力として台頭してきた在地領主である『国衆』が領有する発展途上の村落に展開した。商工業が発展し、多くの人々を引き寄せる都市部においては、他派の教線が入り込んでいたためであり、曹洞宗寺院はその間隙を縫って、その数を飛躍的に増加させていった歴史的経緯がある〉
としている。
本州の最北端にある青森県下北半島のパワースポット恐山(菩提寺)も、曹洞宗寺院だ。
北海道は江戸時代までは蝦夷地と呼ばれて、アイヌの住む土地だった。そもそも北海道は仏教の歴史は浅いが、江戸時代に幕府がロシアの南下政策に危機感を抱いて「蝦夷三官寺」を開いたのが最初である。蝦夷三官寺とは、浄土宗の有珠善光寺(伊達市)、天台宗の等澍院(様似町)、臨済宗南禅寺派の国泰寺(厚岸町)だ。いずれも現存している。
明治時代に入って、布教が本格化し、現在道内には2300もの寺がある。これは北海道開拓のための移民の心の拠り所、供養の場として寺が開かれたからだ。永幡豊『北海道における仏教寺院の分布について』によると、北海道開拓民の多くは東北6県(41.4%)、北陸4県(26.3%)が占めていた。曹洞宗王国の東北と真宗王国の北陸からの大量移民の影響を受け、現在、北海道では曹洞宗が全体のおよそ20%、浄土真宗系が43%という分布になっている。
東京都は浄土宗寺院が多く、千葉県では日蓮宗寺院が多い
東京都を含めた首都圏の仏教勢力はどうか。
戦国時代、各地の戦国大名の庇護を受けた寺院が、その地域で力を持つようになった。たとえばこの頃、江戸に入った徳川家康は東京・芝の増上寺の存応に深く帰依し、菩提寺にした。そのことで増上寺は徳川歴代の墓所となり、江戸では浄土宗寺院が勢力を拡大する。現在でも都内には浄土宗寺院が多い。
家康のブレーンだった天台宗の僧、天海が3代将軍家光の時代に創建した寛永寺も同様に将軍家の菩提寺となり、江戸時代は関東では浄土宗と天台宗の勢威が高まった。
また、千葉県では日蓮宗寺院が多い。それは日蓮の直弟子日進が法華経寺を拠点にして、上総や下総で大布教を展開した影響が考えられる。
北陸は浄土真宗を開いた親鸞の嫡流、蓮如が15世紀に越前吉崎に赴き、布教の本拠地としたことで、まさに「真宗王国」になっている。
なぜ、京都には曹洞宗のお寺が少ないのか
日本を代表する仏都、京都。寺の数の上では3000カ寺余りで愛知県や大阪府のほうが多いが、なんといっても主要教団だけで大本山の寺院が36もあるのが特徴だ。
浄土宗総本山知恩院、東西本願寺、臨済宗妙心寺派妙心寺、同天龍寺派天龍寺、東寺真言宗総本山東寺などである。そのため、こうした大本山傘下の寺院が比較的まんべんなく分布している。
その京都にあって、あえていうならば、曹洞宗寺院が少ない。これは、京都五山(臨済宗)勢力に、曹洞宗勢力が洛外へと押し出されたとも考えられる。
広島や山口、島根は浄土真宗、山口は浄土真宗本願寺派
中国地方に目を転じれば、広島県や山口県、島根県では浄土真宗勢力が強い。山口県にはおよそ1400の寺院があるが浄土真宗本願寺派寺院が600カ寺を占める。これは戦国時代、毛利元就が真宗門徒の結束の強さに怯え、また、利用しようとして真宗寺院を庇護したからである。
四国の高知県や、九州の宮崎県、鹿児島県はそもそも寺院数が極端に少ない。高知県約360カ寺、宮崎県約340カ寺、鹿児島県約480カ寺である。
これは明治維新の時、日本仏教界が受けた最大の法難である「廃仏毀釈」の影響だ。廃仏毀釈とは新政府が出した神仏分離令に端を発した仏教への迫害のこと。鹿児島県では寺院が1つ残らず打ち壊され、宮崎県や高知県でも大方の寺院が消滅した。
廃仏毀釈の影響は凄まじく、約9万カ寺あった寺院がわずか数年の間に半減したとも言われている。今でも鹿児島県、宮崎県、高知県では寺院が少ないのは廃仏毀釈の影響である。
特に鹿児島県では江戸時代の寺院分布が完全にリセット。廃仏毀釈の嵐が止んだ後、この寺院空白地帯において浄土真宗が大布教を実施。現在、鹿児島県内では8割以上が浄土真宗系寺院となっている。
1200年続いた宗派の枠組みが崩壊の局面にある
以上のように日本仏教の歴史を俯瞰してみるだけでも、地域の信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。詳しくは拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)をご一読いただければ、日本における仏教構造が理解いただけることだろう。
冒頭のように、都会で「宗旨・宗派は問わない納骨堂」が増えているということは、1200年以上続いてきた宗派の枠組みが、いままさに崩壊の局面にあるという裏返しなのかもしれない。
出所:急増中「宗旨・宗派は問いません」が示す1200年以上続いた枠組みの崩壊
(2021年5月16日 プレジデントオンライン)