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「除夜の鐘が聞けない」日本唯一の自治体
極端に寺の少ない地域がある理由
出所:鵜飼秀徳「除夜の鐘が聞けない」日本唯一の自治体
(2018年12月31日 プレジデントオンライン)
日本で唯一、大晦日に除夜の鐘が聞けない自治体が岐阜県にある。その自治体には寺がひとつもないからだ。京都在住の僧侶兼ジャーナリストで『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』を上梓した鵜飼秀徳氏は「明治初期には17の寺院があったがすべて破壊された。いわゆる『廃仏毀釈』の影響だ」という。これまで報じられてこなかった「明治150周年」の暗部とは――。
除夜の鐘がまったく響き渡らない日本唯一の自治体とは?
平成最後の年の瀬を迎えている。私は京都・嵯峨野の小刹で暮らしているが、大晦日の夜はとくに風情がある。紅白歌合戦が終わってしばらく経つと、「ゴーン」という低い鐘の音が聞こえてくる。除夜の鐘だ。午前零時を超えれば、鐘の乱れ打ちになる。天龍寺や大覚寺など地域の名刹5、6カ寺から鐘の音が響いてくる。それは、夜も寝られないほどである。
だが、除夜の鐘の音がまったく響き渡らない自治体が存在する。岐阜県の山あいにある、日本の自治体で唯一「寺のない村」、東白川村である。東白川村は明治初期、藩内寺院17カ寺すべてが打ち壊され、現在に至るまで、1カ寺たりとも復活していないのだ。
除夜の鐘が聞こえない地域は、東白川村だけではない。たとえば高知県、宮崎県、鹿児島県でも、寺の数は極端に少ない。高知県は367カ寺、宮崎県は345カ寺、鹿児島では488カ寺にとどまっている(全国47都道府県における寺院数の平均は1643カ寺)。なぜ、極端に寺の少ない地域が存在するのか。
それは明治維新時、大量の寺院が破壊され、多くが復興していないからである。いわゆる「廃仏毀釈」の影響だ。
明治維新が「仏教抹殺」をした理由
廃仏毀釈は1868(慶応4)年に新政府によって出された神仏分離令に端を発する。神仏分離令は王政復古、祭政一致に基づいて、それまで共存状態であった「寺院」と「神社」を明確に区別するための政策であり、新政府は廃仏毀釈を命じた訳ではなかった。しかし、それを拡大解釈し、寺院を破壊する者が現れたのだ。
寺院建造物だけが失われたのではない。廃仏毀釈は日本人の宗教観、習俗、文化をも大きく壊した。例えば、私の地元、京都では五山の送り火や地蔵盆、盆踊りなどの仏教行事が一時、禁止に追い込まれた。
7月1日から1カ月間にわたって行われる長い祭で日本三大祭として知られる八坂神社(京都市東山区)の祇園祭すら、形態を変えてしまった。もともと八坂神社は感神院祇園社という寺院と神社の両方の要素が混じった宗教施設であった。祇園祭は、もとは御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、むしろ仏教の要素のほうが強い祭であった。しかし、維新時の神仏分離政策によって、仏教色を完全に廃した神社として再スタートを切り、さまざまな仏事が神事へと転換を余儀なくされたのである。
祇園祭のような事例は全国の寺院・神社で見られる。何気なくお参りしている神社が、江戸時代までは寺であったということはよくあることなのである。
少し廃仏毀釈の歴史を振り返ろう。
大晦日に明らかにする平成30年=明治維新150周年の「黒歴史」
最初に暴動が起きたのは、1868年当時、比叡山延暦寺が支配していた滋賀県大津坂本の日吉大社であった。それまで比叡山の僧侶に虐げられていた神官が、仏像、仏具、経典などを焼き払った。これを機に、廃仏毀釈の波は全国に広がっていった。
廃仏毀釈の強弱は地域差が大きい。なかでも激しい廃仏運動が展開されたのは、水戸・松本・富山・苗木(岐阜)・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島である。
とくに薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)では、幕末から1876(明治9)年までにかけて1066あった寺院が一堂一宇を残さず壊された。2964人いた僧侶もすべて還俗(げんぞく。一般人に戻ること)させられた。
薩摩藩における廃仏毀釈の背景は、藩の内政上の問題が大きい。当時、藩は西洋化を急いでおり、とくに軍備を拡充するためには大量の金属が必要であった。そこで合理的に金属を徴収するために、寺院に目をつけたのだ。薩摩藩内寺院では、釣り鐘や仏具などが次々と没収されていった。仏具などは溶かされ、大砲などの武器の鋳造に当てられた。
さらに、薩摩藩は寺院から供出させた金属で偽金造りにも関わっていく。
第12代藩主島津忠義は1862(文久2)年、当時薩摩藩の支配下にあった琉球王国を支援するため、などと幕府を欺き、天保通宝の大量偽造の命令を出す。その額は290万両にも達した(『偽金づくりと明治維新』徳永和喜著、2010年)。偽金は全国に流通し、大インフレを引き起こしたという。薩摩藩が幕末、雄藩として存在感を示していったその背景には、多大なる寺院の犠牲があったことはほとんど知られていない。
鹿児島「1世帯あたりの切り花の消費量日本一」の意外な背景
鹿児島(あるいは隣県の宮崎県)では廃仏毀釈の影響が、いまでも尾を引いている。ひとつには、県民の仏教への依存度が低いということが挙げられる。地域に寺院があまり存在しないので、お寺にお参りに行くという風習があまりない。鹿児島や宮崎では葬式の形態も、神葬祭(神道式の葬式)の割合が高い。
また、多くの歴史的建造物や仏像が壊されたので、文化財が極めて少ない。とくに鹿児島では仏教由来の国宝、国の重要文化財がひとつもない。文化財の数が少ないということは、県の文化財関連予算規模が小さいことを意味する。150年前の廃仏毀釈は、現代の教育の原資をも毀損させているのだ。
また、地域に寺院がほとんど存在しないので、「この寺にお墓を持ちたい」「この宗派の教えに触れたい」というような宗教の選択肢が限られている。憲法で守られている「信教の自由」が、実は鹿児島や宮崎、高知などではかなり制限されてしまっていると言っても過言ではない。
一方で、こんな現象も生まれている。実は鹿児島の人々は熱心に先祖供養を行う県民性で知られている。たとえば鹿児島の墓地にいけば、どのお墓にも生花が供えられているのを目にすることができるだろう。事実、鹿児島の1世帯あたりの切り花の消費量は日本一(年間1万2819円)、また10万人あたりの生花店の数も鹿児島が全国一(26店)だ。仏教としての教え(信仰)に触れる機会が減った反面、墓参り(先祖供養)が肥大化していった、とみることができるかもしれない。
松本市の164カ寺のうち124カ寺が1870年の1年間で廃寺に
もう一箇所、長野県松本市のケースも紹介しよう。松本藩では、最後の藩主戸田光則の新政府にたいする「忖度」が背景になって、激烈な廃仏毀釈が吹き荒れた地域である。
1870(明治3)年のおよそ1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっている(破却率76%)。
戸田家はもともと将軍家の血筋を引き、松平姓と三つ葉葵の紋を下賜されてきた家系であるが、幕末期、幕府が劣勢になってくると立場を翻意。戊辰戦争勃発時、徳川追討の新政府軍が中山道を通過する際、従来通り幕府につくか、それとも新政府につくか、大いに心が揺れたという。
結果、戸田は新政府に寝返るが、この時の迷いが軍への合流に後れをとったとの負い目を生じさせる。戸田は寝返った後は、新政府にたいする極端な忠誠心が芽生えていく。当時、神仏分離政策を推し進める新政府へのアピールとして、廃仏毀釈を過激に展開していった。
戸田はまず、戸田家の菩提寺全久院の廃寺から着手する。全久院の住職が、歴史的にも貴重で格式ある寺院であることを説明し、寺院の存続を懇願しても聞く耳を持たなかった。戸田家の位牌は、近くの川に投げ込まれ、仏像・仏具は焼き払われたという。
松本の旧開智学校は破壊された3寺院の建材で組み立て直された
ところで松本観光といえば、国宝松本城がその筆頭に挙げられるのではないか。そして松本城と並ぶ名所が重要文化財の旧開智学校であろう。
旧開智学校は八角形の塔のついた和洋折衷のモダンな建物だ。明治初期における近代教育の礎となった場所でもある。実はこの旧開智学校は全久院でバラされた建材のほか、戸田によって破壊された松本市内の寺院計3カ寺の建材によって組み立て直されたものだ。明治初期に実施された文部省調査によれば、全国の約4割の小学校が廃寺を活用したものだとしている。近代教育制度確立の影で、多くの寺院が壊されたのだ。
さて、ここまで明治維新における権力者の寺院破壊について批判的に述べてきた。だが、強調しなければならないのは仏教者にも責任があったということだ。僧侶の堕落が、廃仏毀釈を加速させた側面がある。
それは松本における、僧侶の堕落と廃仏毀釈の関係性が興味深い。
僧侶の堕落が廃仏毀釈の動きに拍車をかけた
松本市西部の山中で近年、ある幻の寺院跡が発見され、関係者を驚かせた。奈良時代の僧・行基が開山した由緒ある大寺院で、その名を若澤寺(にゃくたくじ)という。
若澤寺は江戸時代には松本藩の庇護を受けて興隆。寺域は周囲13kmにも及び、壮麗な本堂、金堂、救世殿などの他、末寺5カ寺を抱えるほどであったという。
ところが折しも廃仏毀釈が吹き荒れ、戸田の命で1830(明治3)年に解体されることになった。石垣を残し、寺は山谷へと帰してしまった。私も調査のため現地を訪れたが、山城を思わせるような何重にも積み上げられた石組みに驚くとともに、長年、人々の信仰を集めた存在がなぜこのような憂き目に遭い、そして復興できなかったのか、疑問が湧いてきた。
旧波田町文化財保護委員長で、若澤寺保存会の百瀬光信さんが教えてくれた。
「若澤寺は問題寺院でした。記録によれば、若澤寺の僧侶の堕落があまりにもひどかったようなんです。住職は遊女の元に入り浸り、檀家(だんか)の顰蹙を買っていたというのです。折しも廃仏毀釈の命令が下された時、地域住民や檀信徒は『こんな堕落した寺は、必要なし』と、むしろ率先して若澤寺の廃寺に手を貸したと言われています」
こうした若澤寺の堕落ぶりに檀信徒の怒りがいかに激しかったかは想像に難くない。それは若澤寺跡地に、転がる首がはねられた地蔵や、山中に放置されたままの歴代上人の墓所を見てもうかがい知ることができる。
松本では若澤寺以外にも復興を果たせなかった寺院は40カ寺ほど存在している。若澤寺のように僧侶自身の問題で再建不可能になった事例はいくつもありそうだ。
150年前の日本仏教史最大の法難は過去の遺物ではない
実は、僧侶の堕落が仏教の衰退を招いている事例は、今も150年前もさほど変わらない。現代においては法外な戒名料を要求する住職の話はちらほら耳にするし、ある名刹の住職は女性問題で罷免され、裁判沙汰にまで発展している。今の仏教界にとって、絶好の教材になりうる史実が廃仏毀釈なのである。
150年前の日本仏教史最大の法難は、決して過去の遺物ではない。地域によっては文化そのものが失われ、宗教にまつわる多くの習俗が劇的に変化したのである。
明治維新といえば2018年は150年の節目であり、多くは光の部分に脚光が集まる。しかし、闇の部分もぜひとも知っておいていただきたいと思う。
私は今月20日、『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を上梓した。これは上記のような鹿児島や松本の事例など、全国の廃仏毀釈の痕跡を訪ね、廃仏毀釈の実態を解き明かしたものだ。興味ある方は本書を手にとっていただければ幸いである。
出所:鵜飼秀徳「除夜の鐘が聞けない」日本唯一の自治体
(2018年12月31日 プレジデントオンライン)