コラム No.039 「アマビエだけではない」100年前のパンデミックを教える巨大慰霊碑の意味

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「アマビエだけではない」100年前のパンデミックを教える巨大慰霊碑の意味

「新型コロナ石碑」を絶対残すべきだ

出所:鵜飼秀徳 「アマビエだけではない」100年前のパンデミックを教える巨大慰霊碑の意味
(2020年6月13日 プレジデントオンライン)

全国の寺院の墓石などには、過去に蔓延した伝染病にまつわる“遺産”がある。たとえば約100年前にパンデミックが起きたスペイン風邪では、日本人だけでも約38万人が亡くなったが、そのことを伝える慰霊碑も多い。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「大阪の一心寺には、当時の薬剤師がつくった尖塔の形の慰霊碑がある。今回の新型コロナでもモニュメントを作ったほうがいい」という——。

100年前のスペイン風邪の死者を弔うための慰霊碑を薬剤師が建てた

日本の仏教は時に「葬式仏教」と揶揄やゆされる。その葬式すら近年は簡素化傾向であり、寺院の存在感は薄れつつある。

だが、全国の寺に残る葬式の記録や墓の存在には、侮れないものがある。世界がコロナ禍にある中、本稿では、日本の寺院に残されている「伝染病にまつわる遺産」について紹介したい。仏事以外でも、寺院には意外な役割があることを知ってほしい。

コロナウイルス感染症が広がりを見せる前の今年1月末。私は大阪・通天閣の近くの「一心寺」にいた。一心寺は、遺骨の粉を集めて阿弥陀仏に造形する「骨仏」の寺で有名だ。この骨仏については1月25日の本連載記事「もう限界 関西屈指の人気寺が“納骨制限”に踏み切ったワケ」で紹介している。

実はこの取材時、境内で別の興味深いものを発見していた。「大正八九年流行感冒病死者群霊」と刻まれた慰霊碑である。これは墓地の入り口にあり、オベリスクのような尖塔の形状をした特殊な形状(奥津城と呼ばれる)だったので目に留まったのだ。

一心寺の慰霊碑は、1918(大正7)〜1920(大正9)年に日本で大流行した「スペイン風邪」における犠牲者を弔うためのものだ。施主は大阪市内で薬問屋を営んでいた薬剤師・小西久兵衛となっている。いわば医療従事者のひとりとして、人々の病状回復を願って当時のクスリを処方したのだろうか。しかし、願いはかなわず、多くの死者が出たことを無念に思ったのかもしれない。そして、後世の人に疫病の怖さを忘れないでほしいという気持ちを込めたのだろう。

新型コロナより多くの感染者・死者が出た

厚生労働省によればスペイン風邪は全世界で5億人以上の感染者を出し、死亡者5000万〜1億人という途方もないパンデミックをもたらした。日本でも2500万人が感染し、38万人以上が死亡している。日本においては、1918(大正7)年8月下旬から感染が広まり(第1波)、いったんは下火になるも1919(大正8)年秋から翌1920(大正9)年にかけて第2波が押し寄せたとされている。

被害は特に東京府や兵庫県で多かったとの記録があり、全国各地に蔓延した。一心寺の慰霊碑には「大正8年、9年」の記述がある。そのことは、大阪では第2波がより強力なものであったことをほのめかしている。大阪全域では、47万人以上の感染者と1万1000人以上の死者を出している。

津波被災地の石碑には「此処より下に家を建てるな」と刻まれていた

スペイン風邪における慰霊碑建立の例は、一心寺だけではない。丹後半島の京都府伊根町にある「丹後大仏(筒川大仏)」も、スペイン風邪の犠牲者を弔うために造立された。丹後大仏は台座を入れると4mの大きさである。

1917(大正7)年、地元の製糸会社の工場従業員116人が東京に慰安旅行し、多くが感染した。京都に戻ってきて発症、42人の工員らが死亡した。それを悼んだ工場長が翌1918(大正8)年に金銅仏を建立した。だが、第2次世界大戦時の金属供出の憂き目に遭い、現在の石仏が2代目として造られた。

この大仏の前では、毎年春にお釈迦様の誕生日を祝う花まつりが実施され、スペイン風邪の悲劇を伝承し続けている。今年は5月29日にも、コロナ終息のための祈願清掃が実施された。

全国を見渡せば、過去の大規模な疫病蔓延や自然災害の際には決まって、石碑が造られている。例えば数千人の犠牲者を出した1933(昭和8)年の昭和三陸大津波の後には、岩手県宮古地区に教訓とするために石碑が造られた。石碑には「此処より下に家を建てるな」と刻まれ、集落の人はその言い伝えを忠実に守ったために、東日本大震災の際の被害は比較的小さかったと言われている。

「感染症は忘れた頃にやってくる。衛生管理には常に気を配れ」

そういう意味では一心寺の慰霊塔や丹後大仏もまた、「感染症は忘れた頃にやってくる。衛生管理には常に気を配れ」ということを後世に伝える「教訓」や「メディア」としての碑でもある。

私の寺の境内も見回してみた。石碑の類いは句碑くらいだが、ふと墓石の存在に気づいた。そして墓誌を見ていると、あることを発見した。1918(大正7)年から3年間に葬儀・納骨された事例が多いのだ。そこで過去の葬儀の記録も見てみた。確かに、この3年間は前後年と比較して、死亡者が多かった。

大正年間の小刹の平均葬儀数は約8件である。だが、大正7年――14件、大正8年――11件、大正9年――20件であった。この数字だけでは確定的なことは言えないが、スペイン風邪の影響が十分考えられる。

そこで、知り合いの全国の寺院10カ寺に、スペイン風邪蔓延時の葬式数をカウントしてもらうべく、調査表を渡して協力を願い出た。すると、興味深い結果が得られた。1918(大正7)〜1920(大正9)年に限っては、多くの寺院で2~3割程度、葬式数が増加していたのだ。

「第2波」による死者数が多いことが寺院の記録でわかった

最も檀家数の多いA寺(神奈川県横浜市)の葬式数を見てみる。

1917(大正6)年 122件(流行前)

1918(大正7)年 157件(第1波)

1919(大正8)年 141件(第1波終息)

1920(大正9)年 166件(第2波)

1921(大正10)年 140件(第2波終息)

同寺では年間の平均的葬儀数は130件前後と思われる。特に第2波の1920年の葬式数の増加は顕著である。

次に、東京都北区のB寺。この寺は檀家数がさほど多くないので、葬式数の増減からスペイン風邪の影響を読み取ることはいささか乱暴だが、それでも変化はあった。

1917(大正6)年 8件(流行前)

1918(大正7)年 13件(第1波)

1919(大正8)年 17件(第1波終息)

1920(大正9)年 17件(第2波)

1921(大正10)年 15件(第2波終息)

B寺の場合、興味深いことに死因の記録が残っていた。「米国シアトルで死去」「感冒」「流行性感冒肺炎」「肺炎」などと、スペイン風邪との関連性をうかがわせる死因の記述があった。

当時の住職はどのような心境で葬式を執り行ったのだろう。現在、コロナ感染症死亡者の葬式は厳戒態勢が取られている。遺体を納体袋に入れ、徹底的に消毒をした上で、先に火葬。遺族も骨壺に納められて初めて故人と対面するありさまである。スペイン風邪の時の住職の日記があれば、それは貴重な記録であろう。

江戸末期のコレラでも葬式数が急増したという記録が

さらに時代をさかのぼって寺院の記録を見てみた。江戸末期の1858(安政5)〜1859(安政6)年にはコレラが大流行した。安政のコレラは長崎で最初の感染があり、同年8月には江戸で大流行した。江戸だけで死者は28万人とも言われている。

例えば幕末期の平均葬式件数が30件前後の熊本県のC寺の場合、

1858(安政5)年 57件

1859(安政6)年 76件

1860(万延元)年 44件

1861(文久元)年 28件

であった。これもコレラが原因の増加と考えられる。小刹の場合も、安政年間には通常の3倍ほどの葬式数に上っていた。当時はコレラに対して医療もほとんど機能しなかったであろう。

「新型コロナ石碑」を絶対残すべきだ

ちなみに、疫病平癒の霊力を持つ「アマビエ」が瓦版(天変地異や市井の事件・自己などを伝える印刷物)に登場したのが、1846(弘化3)年のこと。肥後国(熊本県)の海に現れて、「当年より6カ年は諸国は豊作になるが、病が流行る。早々に私の写しを人に見せよ」と言い残して海中に消えたとの逸話が残る。アマビエは、伝染病予防と犠牲者の供養を願って、登場したキャラクターだ。くしくも予言通り、安政のコレラはアマビエ登場の8年後に流行した。

現在、アマビエはコロナ禍において注目され、商品化されたり、SNSで広がったりしている。過去の感染症にまつわる教訓が、150年以上経過して「癒やしのキャラクター」として現代社会に再び活かされた例であろう。

寺や地域に残る古い記録はいま一度、見直されるべきだ。そして、コロナ感染症終息後は、誰もが常に目にすることのできる石碑などのモニュメントを立て、供養を続けることで後世に伝え続けることも、寺の大切な役割だと感じた次第である。

出所:「アマビエだけではない」100年前のパンデミックを教える巨大慰霊碑の意味
(2020年6月13日 プレジデントオンライン)