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誰が「お寺の鐘」を殺したのか…
シェア7割メーカー破綻で考える”政治家と隣近所”のエゴ
誰が「お寺の鐘」を殺したのか…シェア7割メーカー破綻で考える”政治家と隣近所”のエゴ
(2021年7月14日 プレジデントオンライン)
バブル景気の1991年に年12億円余りだった売上高が、2018年には3億円程度に減少。シェア7割の梵鐘メーカーが6月下旬、経営破綻した。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「戦時下、梵鐘などの鋳型仏具は国に没収され、武器や軍艦に姿を変えました。戦後、高度成長期からバブル期に梵鐘が鋳造されましたが、近年は人口減少に伴う過疎化、檀家・寄付金の減少、さらには『ゴーン』という音がうるさい、といった近隣からの苦情もあり、寺院からの受注が減っていた」という――。
コロナ禍でお寺の「梵鐘」メーカーの最大手が経営破綻した
知る人ぞ知る「梵鐘」製造の最大手が経営破綻した。
梵鐘とは寺院の境内に置かれ、時を知らせたり、除夜の鐘などの法要時に衝いたりする仏具の一種である。梵鐘は前時代的なイメージがあるが、戦後、大きく需要を拡大していた。梵鐘は、社会を映し出す鏡。本稿では、時代に翻弄されてきた梵鐘ビジネスに焦点を当ててみたい。
6月29日、梵鐘メーカーでは国内最大手の老子おいご製作所(富山県高岡市)が、民事再生法の適用を富山地裁に申請した。負債総額は約10億6000万円。
老子製作所は江戸時代中期に創業した老舗企業だ。京都の西本願寺や三十三間堂、東京の池上本門寺、成田山新勝寺などの名刹めいさつの巨大梵鐘のほか、毎年8月6日、広島の平和記念式典で打ち鳴らされる平和の鐘など多くの名鐘を手がけてきた。
老子製作所の国内シェアはおよそ70%。梵鐘製作の技術を活かし、境内に置かれる大型の鋳物仏具を手掛けてきた。例えば天水鉢や香炉、銅像の類いである。
老子製作所はバブル景気のさなか、1991年3月期には売上高12億6600万円のピークを迎えた。だがその後、景気悪化に伴って寺院からの需要が激減。2018年3月期には売上高3億円程度にまで減少していた。
梵鐘の発注元の大半は、寺院であり、仏教界の動向に大きく影響される。少し寺院史をみてみたい。
江戸、明治、大正時代の梵鐘は、日本にはほとんど存在しない
現存する伝統仏教寺院の多くは、17世紀初頭以前に開かれている。江戸時代はごく初期を除いて、正式な寺はほとんど開かれていないからだ。それは幕府が江戸初期に村ごとに菩提寺となる寺を整備し、檀家制度を敷いて、キリシタンを禁制したからである。江戸時代には全国に9万の寺があったとみられている(現在は7万7000カ寺)。
梵鐘はひとたび造られてしまえば、その後は鋳造する必要がないものだ。仮に仏堂が火災や災害に遭ったとしても、金属製の梵鐘は無事であることが多い。なのに、戦後高度成長期からバブル期にかけて、全国の多くの寺で梵鐘が新たに鋳造されている。その理由を解説しよう。
日本における梵鐘はおおむね「17世紀初頭以前の文化財級の古いものか」「戦後につくられた新しいものか」の2種類に分かれる。
つまり、江戸、明治、大正時代の梵鐘は、日本にはほとんど存在しないのだ。それは戦時中に、その年代の梵鐘がことごとく、「金属供出」の憂き目にあったからである。
武器や軍艦などを製造するため、梵鐘を含む金属が回収された
日中戦争下、国家総動員法のもとに、国内の物資は国家によって統制させられることになった。1940(昭和15)年9月、米国は屑鉄などの対日輸出禁止措置に踏み切る。この経済封鎖に、日本政府は焦り出す。武器や軍艦などを製造するための金属原料が手に入らなくなったからだ。そのため、国内にある金属製品が強制的に回収されることになった。
真珠湾攻撃が始まる4カ月前の1941(昭和16)年8月、金属類回収令が公布される。最初は、工場などでの金属回収が主であった。だが、そのうち一般家庭も対象になった。門扉をはじめ大工道具、ベーゴマなどが町内会を通じて回収された。だが、軍需を満たすほどには集まらなかった。
1942(昭和17)年5月、内務省や文部省、商工省は学校や宗教施設(寺院や神社、キリスト教の教会など)などの公共施設が保有する「不要不急の金属」を目当てにし、拠出させる通牒を出す。1943(昭和18)年には、商工省の中に金属回収本部が設置され、より徹底的に金属回収が進んでいく。
全国の学校では、たとえば二宮尊徳像がこの時、金属製から石像になっている。現在の二宮尊徳像の多くが銅像ではなく、石像なのは戦時下の金属回収のせいともいわれている。
たとえば東京都目黒区立田道小学校の校門のそばにある「二宮尊徳翁幼児之像」の台座には、「昭和十九年金属回収令に依り供出せし為石像にて再建す」と書かれている。
学校の初代校長や企業経営者の銅像、あるいは顕彰碑の類は9割以上が供出されたという。
渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」も回収された(現在は2代目)
有名なところでは、渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」が回収されている。同像は秋田犬のハチがまだ生きていた1934(昭和9)年に建てられているが、終戦前年の1944(昭和19)年に回収。再び作り直されたのは1948(昭和23)年のことだ。現在のハチの像は、2代目である。
また、野球場の鉄柵、不要普及の鉄道の線路、車両などが回収された。大阪のシンボルであり大阪人のアイデンティティでもある通天閣も、1943(昭和18)年に解体されている。現在の通天閣はハチ公像と同様、1956(昭和31)年に再建された2代目である。
金属回収によって台座だけが取り残され、戦後、その台座を使って現代アートや平和を象徴する裸婦像などが据えられたりしているケースも少なくない。
国からの通牒を受け、寺院や神社、教会などの宗教施設が保有する金属はことごとく、回収対象になった。こうして、寺院が保有する梵鐘や半鐘、鰐口、天水鉢、香炉などの金属製宗教用具が消えていったのである。
だが、寺院の中には歴史的、美術的価値を帯びている金属製品は少なくない。
例えば梵鐘でいえば、日本最古のものは京都・妙心寺蔵(国宝)のもので698(文武天皇2)年の鋳造である。現在、古梵鐘のうち14口が国宝、116口が重要文化財の指定を受けている。
過疎化、檀家減少、寄付減…そして「梵鐘の音、除夜の鐘で眠れない」
戦時中に回収から逃れた梵鐘は、当時の国宝、重要美術品に指定されているもののほか、「慶長年間以前の製造」が対象だった。先に、「日本における梵鐘はおおむね17世紀初頭以前の文化財級の古いものか、戦後につくられた新しいものかの2種類に分かれる」と述べたのはこうした理由からだ。
ただし、皇室が寄進したものや、菊の御紋入りなど皇室に関係する鐘や、慶長年間より新しくても美術的な価値が高いとみなされたものは一部、供出を免れている。
それでも各地の寺院が保有する大方の梵鐘は、消えた。梵鐘は戦前には約5万口あったとされるが、現在、江戸時代以前の鐘は3000口ほどしか残っていないとされている。
消えた梵鐘の中には、当時世界最大級だった大阪・四天王寺の梵鐘も含まれていた。この梵鐘は1921(大正10)年に予定された「聖徳太子一三〇〇年御聖忌(回忌)」の記念事業の一環として、鋳造されている。
高さ約8メートル、胴回り約16メートル、重さ約64トンの、巨体であった。鋳造費は当時の金額で26万円(現在の価値では9億4000万円ほど)。しかし、明治期の新しい梵鐘であったために、鋳造からわずか30年後の1943(昭和17)年11月に地上に下ろされ、バラバラに解体されて武器の原料とされた。
ちなみに供出を免れた梵鐘で現在、世界一の重量を誇るのが方広寺(京都市東山区)の梵鐘だ。「国家安康」「君臣豊楽」と書かれた文言に徳川家康が言いがかりをつけたことで知られる。豊臣家が滅されるきっかけになったこの梵鐘は、高さ約4メートルにたいし、重さ83トン。重さでは方広寺に軍配が上がるが、サイズは四天王寺の鐘のほうが倍近く大きい。方広寺の梵鐘は慶長19年の鋳造であったため、ギリギリ供出を免れた。
戦後の混乱が収まり、寺も資金的な余裕ができた高度成長からバブル期にかけて、失われた梵鐘が造り直された。老子製造所は供出された梵鐘の再鋳の需要を担っていたわけだ。
ところが、バブル崩壊後は寺の経営にもかげりが見えだす。また、地方の過疎化、人口減少によって檀家数が減少し、高齢化も相まって寺への寄付も減っている。
さらには、「梵鐘の音がうるさい」「除夜の鐘で眠れない」などのクレーム社会の煽りも受け、最近では寺院が梵鐘を鋳造することをためらっている。
直近ではコロナ禍の影響も少なからずある。寺が梵鐘を造るタイミングは、「開山500年」「開山上人生誕800年」などの記念法要の時だ。そうした大法要がコロナ禍で中止に追い込まれているのだ。
このたびの日本最大の梵鐘メーカーの経営破綻の理由は、悲しい戦争の歴史に伴う特需のリバウンド、過度に個人主義になってきた社会、そこにコロナ感染症が追い討ちをかけたとみてよいだろう。老子製作所の再建を切に願っている。
出所:誰が「お寺の鐘」を殺したのか…シェア7割メーカー破綻で考える”政治家と隣近所”のエゴ
(2021年7月14日 プレジデントオンライン)